千坂校下町会連合会研修会(研修資料から抜粋) 平成25年6月19日
講師 金沢市町会連合会コミュニティアドバイザー吉田正俊
3)町会の必要性
▧ 歴史から、町会の必要性を考えますと、その源は唐の時代の「5保の制」と言われています。江戸時代の「5人組制度」も、農民の相互扶助、行動の統制、連帯責任の時代でした。
▧ 太平洋戦争の敗戦で、GHQが町会は大政翼賛会の末端組織として戦争に協力したとして、昭和22年のワシントン条約で、町会は廃止となりました。
▧ 昭和27年サンフランシスコ条約の発行時に、町会は復活いたします。
「殿様が平民になった明治維新も、占領軍の絶対的権力も、町会を根絶できなかったのに、町会は不死鳥のごとく復活致しました。」
▧ 町会が地域の問題処理や安全などと、行政との関係を果たす「生活密着機能」つまり「生活基礎機能」の活動が住民と密着した、相互扶助の心強い組織で会ったからです。
▧ しかし、地域の連帯は、一日にしてなるものでなはなく、長い年月をかけ、町会長のもと、日頃の住民のつながり(絆)努力で、つくりあげた結果でありました。
▧ 町会は住民に必要な組織であります。現在の町会を取り巻く「住民からの要求」や「社会的環境」は厳しく、また、変化しているので、町会も新しい公共地域コミュニティに変革を続け、持続可能組織として存続していくことが住民に安心を与えます。
【5保の制】とは [世界大百科事典の解説]
古代律令制下の隣保制。唐制にならったものであるが,日本では唐の隣の制度は継受せず,ただ保の制度のみを採用した。5家(5戸のこと)をもって1保を構成したので五保と称する。
保には保長が置かれ,50戸からなる里の下部組織として,保内の相互検察,貢租徴税の確保などの義務が課された。
保内の人の他行や止宿者の相互告知,保内の逃走戸の追訪と田地の代耕,租調の代輸などはその一端で,大宝令の注釈書である《古記》は,僻遠の地で25戸以下の場合は里長を置かず,保長をして賦役を催駆せしめるとしている。
▧ 1959年9月死者不明者5098名出した伊勢湾台風で、2年後の1961年、災害防災基本法設定されて自主防災会設立制度がでました。
▧ 1995年1月阪神淡路大震災がありました。住民のつながりのある神戸真野地区の町会では、消防車も救急車来ない、救援物資も届かないなかで住民が自発的に消火、救命、生活物資の融通などを行い、19名の生き埋めの方々のうち、7名の救出に成功、地域の人々のつながりが命を救った例となりました。
▧ 日頃から地域のつながりが強かった、淡路島の北淡町では、家屋の被害1000件を超え、死者38名、負傷者800名の大被害の中、町内会のバケツリレーで、火災は一件だけに抑え、行方不明者ゼロにし、さらに震災当日の夕方には安否確認を終えていた。
▧ 神戸淡路大震災では、自力で脱出できなかった、約8割の人々を近隣住民の方が救出したといわれています。
▧ 被災地の町会長は毎晩集まり、区役所、警察、消防署への伝達事項を整理して報告したことが、救助活動や、以降の復旧に町会は大きく貢献した。相互扶助の組織活動の例となりました。
▧ 2011年3月死者21,504名不明者2,676名。3.11の教訓として、想定外災害の発災後の「助けて」と言う受援力とジェンダー視点の対応、人間復興対策の遅れなどが課題となりました。(マッチング訓練不足)
▧ 以上災害歴史から学ぶことは、人の命財産を守るのは、平時より顔がわかり、つながりと信頼関係が構築できている町会で、危機には住民が自発的に、助け合うことができます。他の組織より相互補助の町会の働きは大きいと考えられます。
千坂校下町会連合会